公開: 2024年3月7日
更新: 2024年3月7日
明治以来、日本社会の学校教育は、一人の教師が数多くの生徒に対して、同じ言葉で説明し、同じ教科書、同じ板書で、知識の内容を伝えるやり方が採用されてきています。これは、生徒たちの大多数が似たような前提知識を持っていることが、仮定されています。この仮定は、戦後の日本社会の教育現場では、成立していません。生徒たちの事前の知識の幅は、著しく広く、差が大きいからです。一般に裕福な家庭の子供たちは、知識が豊富で、貧しい家庭の子供たちは、知識が乏しいのです。この2種類の生徒に対して、一人の先生が、一つの内容を説明し、理解させることは難しく、そのどちらか一方の知識水準に合わせた事業を行うしかありません。この生徒たちの知識の格差が、教室内での学習管理を難しくするのです。
学習内容の水準を下げれば、知識の乏しい生徒たちはついて来られるようになりますが、知識の豊富な生徒たちにとっては、授業時間は、無駄な時間になってしまうからです。逆に、知識の豊富な生徒に合わせてしまうと、ごく一部の生徒にしか理解できない授業になり、集団学習の目的は達成されません。現在の小学校や中学校で起きていることは、この2分化された集団に対して、先生は、どのような方法で学習指導を行えば良いかの問題に対する解が存在しないことにあります。唯一の解は、クラスを2つに分割して、2名の先生で分担することでしょう。しかし、現在の日本社会には、それを可能にする経済負担を容認きないことにあるのです。
過去の日本社会では、これほど大きな知識水準の差が、小学校の教育現場に存在したことはありませんでした。それは、日本社会で、教育格差の問題が表面化していなかったためでしょう。子供たちの親が、子供たちの将来の生活水準が、子供たちの教育水準に関係していると考え始め、そのために子供たちにより高い教育を与えようと考え始めました。そのため、個々の生徒に最適な教育環境を与えることが、親たちの命題になって来たのです。親たちは、現場の教員に対しても、自分たちの子供に最適な教育環境を用意するように主張しました。このことが、一部の生徒に対する教育上の配慮を、教師の関心から外させる原因の一つとなりました。教員から見放された生徒たちの中には、学校での学びに興味を失う生徒が出現すると言う、結果も生み出しました。その中には学校での学びに興味を失い、教室内で他の生徒の学びの邪魔をしたり、教室に来なくなるなどの態度をし始める生徒もいました。
これは、個々の教員の資質の問題と言うより、教育制度の機能不全と言う方が正しいでしょう。日本社会では、国家の義務的教育に対する財政負担が、他の先進国よりも低く抑えられています。そのせいで、教室内の生徒の数に比べて、教師の数が少なすぎる例が、しばしは見られます。これが原因で、教員の授業について来られなくても、教員が適切な援助をすることができない例も多く、「落ちこぼれ」る生徒が出現したのです。生徒全員を同時に進級させるのではなく、学習が不十分な生徒は進級を停止し、再度、同じ内容を教えるなどの対応を採るべきでしょう。この対応でも、追加の教員が必要になるため、追加の財政負担が生じます。